未だ、昨日の出来事の衝撃が大きすぎ、ブログ更新の気持ちの余裕もないのだけど、
このブログは、自分自身の生活の記録でもあるので、少しずつ綴っておこうとPCに向かっています。
昨日の地震発生時刻、私は会社の新しいシステム導入のトレーニングを受けていました。
私の勤めるオフィスは、横浜ランドマークタワーの高層階にあります。
日常で起きる地震は、比較的ふんわりと揺れる感じで、地上で感じるような、グラっとした感じがなく、
あれ?なに??という感じなのですが、それでもバネのように建物が曲がるような、
異様な揺れ方でした。
今でも船から降りた直後に感じるような、船酔いのような気分の悪さが残っています。
そのうち、あちこちから悲鳴と泣き声が聞こえました。
「震度7らしい!!!」という声が聞こえ、実際は横浜は5強のことでしたが、
震度7だと言われても、不思議ではないくらいのものすごく大きな揺れでした。
実際の震度7とは、一体どんなに恐ろしい揺れだったのだろうかと思います。
(未だに仙台の知人や岩手の知人とは連絡がとれず、気をもんでいます。)
しばらく、会議室のテーブルの下で後輩と手を握り合いながら、様子をうかがっていましたが、
やはり頭にうかぶのは、家で一人でいるはずの息子と、学校にいる娘のこと。
そして、京都から上京している叔母をつれて中華街へランチへいっているはずの母たちのこと。
デスクに携帯を取りに戻りました。
(しかしまったく繋がらず。。)
後で知りましたが、Softbankの回線が一番ダメでした。
意外にも活躍したのは固定電話でした。(地域によりましたが。。)
(公衆電話が長蛇の列でした。)
二回目の揺れのあと、ビルから避難勧告が出ましたが、非常階段付近で階段を下りる準備をしていたところ、避難勧告の解除。オフィス内で待機するようにというアナウンスで急遽オフィスへ戻りました。
高層階にいると、地上での様子が全く分からず、気持ちは焦るばかりでした。
オフィス窓から地上を見下ろすと、東京方面は煙が上がっており、パニックになっている様子がうかがえ、それがまた、いっそう心を騒がせました。
息子と何度か連絡をとり、学校への娘の引き取りをどうしようかと話し合いました。
息子は、「俺が行く」 でしたが、親としては迎えにいった途中、息子が余震の被害があっては困るので、できることならば、私が自宅へ帰るまで、安全が確保できている学校で、待機をさせておきたかったのです。
しかし、ようやく繋がった学校の先生から、「お母さんが高層階で仕事してるので心配だと泣いています・・。」と、聞き、息子と家に一緒にいさせたほうが、娘も落ち着くだろうと思い、息子に、くれぐれも気をつけて学校へ迎えに行くようにとお願いしたのでした。
「分かった。学校から帰ってきたら連絡する。」
といったあと、その連絡を待つ間が、とてつもなく長かったです。(なかなか私の携帯には繋がらなったので。)
ようやく繋がって、私の声を聞いた娘が、電話口で大泣き。
「ママは大丈夫だから。」というと、ほっとしたようにワンワン泣いていました。
その時点で、電車全線不通との情報でしたので、どうしたものか・・と、余震の中で、帰るタイミングを待っていたのですが、日はどんどん暗くなるばかり。
ようやく息子のところに母の連絡が入り、横浜付近のホテルのロビーで寒さをしのいでいるとのこと。そこでも本当にほっとしました。
オットとはまったく連絡がとれずにおりましたが、
「お父さんからは自宅の電話に連絡があった。」という情報。
もう、これは一番早く帰ることができそうな私が歩いて帰るしかないでしょうと意を決し、
高層階から地上へ階段を使っており、家へと歩き出したのでした。。
つづく・・・・